マームとジプシー「cocoon」

17.ただの偶然のできごと(中村直樹)

 8月18日の日曜日。上野恩賜公園の野外公会堂。そこでの5人の女の子が歌い、踊っています。
「さぁ、みんな、いくよ?」
 彼女たちは、はちきんガールズ。高知県のご当地アイドル。10代の女の子たちを、28歳を越えているであろう男たちも含めて、鳴子を鳴らして声援を送っています。

 熱狂的なそのステージに、私はなぜか集中しきることができませんでした。それはなんでだろうと考えてみると、東京芸術劇場のシアターイーストで、cocoonというお芝居を観たからでした。そのお芝居では生き抜くことも出来なかった10代の多くの女の子たちが描かれていました。

 cocoonは今日マチ子の原作の作品です。それをマームとジプシーの藤田貴大が演劇にしました。その作品は、とてもとても痛いものでした。

 劇場に入ると、まず白い大きな布が目に飛び込んできます。そして、正方形で、砂が敷き詰められている舞台に気がつきます。三方を客席が取り囲み、正面に当たる辺に、件の白い布が掲げられています。その舞台上には、女の子が一人、二人、体育座りをして佇んでいます。

 戦争ものであるという意識が強いためか、劇場には普段と違う緊張感が走っています。後方の方からは、観客による沖縄の地上戦の話が聞こえてきます。

 この作品は、サンという女の子が母親と後に出会うであろう男と話しているシーンから始まりました。休みに帰省していたのでしょうか。電車に乗って学校に向かうため、駅のホームで待っています。そこにやってきた一人の男。サンたちを横目で見つつ、暑い、ビールが飲みたいとラップ調に言っています。

 そして、舞台は変わり、女学校の中へと変わります。青さが眩しい空の下、きゃぴきゃぴとした女の子たちが集まってきます。おしゃれ好きな女の子、絵を描くのが好きな女の子、姉御肌の女の子、怖い女の子、ぼうっとした女の子、理屈っぽい女の子などなどなどいろんな性格の女の子が集っています。

 そして、女の子たちは、自分たちの紹介を始めました。

 木の枠を持った女の子たちが現れ、他の女の子たちの紹介が行われています。その間、白い布のスクリーンには今日マチ子の描いた登場人物たちが投影されています。その絵はマンガのようにコマ割りされています。そして、紹介された女の子たちはその枠の中からぴょんと飛び出したりしています。それは、今日マチ子の漫画の世界から女の子たちが飛び出してきた感想を抱きます。
「いっせーのーせ」
 大縄跳びで飛ぶように、皆がジャンプします。そして、枠を持つ女の子たちは違う辺のお客の前に立ち、別の女の子たちの紹介をしていきます。リフレイン。マームとジプシーの特徴的な演出で、同じ空間を別の方向から照らし出し、多方面からその場所というものを浮かび上がらせます。

 女の子たちは、女学校の中ではクラス対抗のリレーの勝ち負けや、オシャレの話や絵の話で盛り上がっています。その姿は今時の女の子たちとなんら変わりません。そして、誰かが突出しているわけではなく、女の子たちという集団で描かれています。

 女学校という繭に守られていた女の子たちも、とうとう繭の外へと飛び出す時期がきました。そこは生と死が交錯する恐ろしい世界です。
「私もお父さんやお兄さんのように、お国の為になるのね」
 女の子の一人、サンはこのような事をいいます。そのサンが学校に帰り始めると、それまでは表現されていなかった、戦争というものが身近に描かれ始めます。繭の外、つまり世間との?がりが出来て、ようやく世間の状況が語られだしたのです。

 ガマの洞窟の中で、女の子たちは負傷した兵士の看護をする任にあたりました。最初はあまりの凄惨な光景に嘔吐してしまう女の子も出てきます。しかし、日が経つにつて、女の子たちも成長していく、大の大人が「人でなし」というような医療行為すらこなして行くようになります。その中で女の子が爆撃に巻き込まれて、腹が割かれて死んでしまったり、栄養失調で死んでしまったりしていきます。悲しんでいる状況でないため、それを現実として受け入れ、やらなければならない事を続けて行くようになっていきます。女の子たちは看護師へと成長して行きました。

 ガマの洞窟が軍によって基地として接収することになり、女の子たちはさらに外の世界へと送り出されます。それは死が目の前に存在する世界。そこで女の子たちは死んで行きます。敵の砲撃により、自ら頭を石にぶつけて、ウージの実を食べて、死んで行きます。
「いっせーのーせ」
 女の子たちは手榴弾のピンを抜いて死んでいきます。そして、サンという女の子は、助けた兵隊に犯されてしまったため、少女としての死を迎えます。

 このシーンで、最初の女学校でのシーンのリフレインが使われています。それにより、同じようなシーンもシチュエーションによって、全く違う印象を与えることを効果的に出していました。あの楽しそうだったあのシーンが今の悲しいこのシーンを引き立てているわけです。そして、スクリーンには今日マチ子が描いたそれぞれの女の子の悲惨な絵が描かれています。片足のない女の子、腕をなくした女の子、頭を打ち抜かれた女の子。死とほど遠い絵柄の今日マチ子が描くそれらの絵は、凄惨だと思える絵以上に凄惨な印象を与えています。漫画から飛び出してきた女の子たちは、漫画の中でしんでいくのです。

 女の子たちは死にました。そして、一人、女となってしまったサンだけが生き残ります。全身を使って砂浜に打ち寄せる波を表現し続けるサンは、女としての生命力まで見えるようです。

 これは過去の沖縄の話なのでしょうか? いいえ、違います。異世界の話なのです。戦争も67年以上前の出来事となり、戦争を実体験してきた人々も少なくなってきました。過去の記憶が歴史という記録となってきています。そこにあった市井の多くの人々の感情は忘れ去られ、名前のある人々のものとなってしまうのです。

 藤田貴大は、そのような戦時下という異世界に今時の女の子となんら変わらない女学生を、初々しさの残る女優たちを放り込みました。

 その結果、私たちと同じ時を生きる女の子たちが嘆き、苦しみ、死んでいく。その中でも成長していく。そのような光景が目の前に展開していくのです。そして、そのことにより、私たちは、女の子たちに同情するのではなく、私たち自身が、戦時下という異世界に放り込まれたように感じるのです。そして、戦時下の市井の人々に成り代わるのです。

 そこで吸った空気は現代とは違った臭いを放っていました。焼け焦げた臭い、血の臭い、腐敗した臭い。それらの現実には存在し得ない臭いを感じた時、現実の世界と異世界の境界はものの見事に崩壊しました。

「いま、わたしはどこにいるのか」

 私が今まで感じていた現実感を、とても空虚なもののように感じさせてしまったのです。

 目の前にいたはちきんガールズは、ヒーローの格好に着替えてステージに現れました。
「やっちゃる戦隊ハチキンジャー!」
 漫画家のMoo.念平が描いた作品を、擬音を含めてすべて再現していきます。
「日本の平和のために戦え!ハチキンジャー」
はちきんガールズも、異世界でお国のために戦っていました。

 いま、この時も芸劇の舞台上で女の子たちは死んでいくのだなと思うと、舞台上の女の子たちと、はちきんガールズとの違いは、はたしてなんなのか、そんな思いが浮かんで来ます。

 それは何もないのです。彼女たち自身に差はないのです。ただ、偶然、事故にあっただけなのです。

 偶然にすぎない、いまこの時。それをただ生きているにすぎないのです。

 はちきんガールズが事故に遭遇する偶然も、舞台上の女の子たちが事故に遭遇しない偶然もあり得たわけなのです。

 そして、私たちにもそれを言えることなのです。偶然、私たちもここにいるにすぎないのです。

 藤田貴大はそこまで問うているように感じます。

 その偶然を幸せと思うなら、その偶然をただ楽しもう。28歳をとうに越えた私は、そう思い直して目の前で繰り広げられるはちきんガールズのパフォーマンスに集中するのでした。

 それが藤田貴大への私なりの回答なのです。
(2013年8月17日19:00の回観劇)

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